斬進快楽写真家 金村修 ネット記事まとめ

 金村修さんは、そのロックな風貌から想像するような、モノクロでソリッドな都市スナップ写真で世界的に有名な写真家です。
現代進行形で活躍されている方なので、ネットにも様々な形でされています。その一部をまとめました。彼の文章の多さは有名ですが、ネット記事だとまた別の側面が見えてきます。ぜひ参考になればと思います。
技術信仰がまだありえた時代、そんな時代がデジタルカメラの出現で終わりを迎えた。みんなが知らない技術を知っているという技術の独占が意味を持たなくなった。価格の高いカメラを買えば画面の質は向上する。写真家のアイデンティティーを技術に求めることがもう成立しなくなった。誰にでもいい写真が撮れるという事実は、誰が撮っても同じということだから、“誰が撮った”の“誰”がどこにも存在しなくなる。作者がいなくても撮れるという作者の不在、作者の抹消をデジタル写真はさらに促進するだろう。
「行き詰まったらその行き詰まりを見せるのが写真家であって、何でも撮れるなんてつまらない可能性を見せることなんかじゃない。行き詰まったり、つまらなかったりの何が悪いのかと思う。無限の可能性を秘めているなんて思われる方が変だし、つねに新しくなくちゃいけないって、コマーシャルの世界ならともかく、そういう意識ってすごく強迫神経症的だと思う」
1929年の暗黒の木曜日は紙幣が意味のない排泄物のような白い紙束であることを暴露したように、恐慌は宝の山としての紙幣を廃物屋のがらくたに転化する。恋愛は宝の山ではなく、がらくたになった廃物に恋をすることであり、価値を失った白い紙束としての紙幣に熱烈に恋をする。



・客観性を出して、作者の主観性をはぶく。
・中心(消失点)を出さない。全体を主役にしたい。
ヘロイン中毒者はうっとりしながら壁を見る。薬が効いているあいだは、ずうっと何も起きない壁を見続ける。「何事もない穏やかな日々です。」。何も起きないことは退屈なことではなく、ジャンキーにとって何も起きないことがまさに至福の瞬間なのだ。
大学では彼の写真の真似事ばかりしていた、ゴミゴミした景色を見つけては、EOS70で撮りまくっていた。大学4年間で何万枚撮ったか知れない。インドやらタイやらにに旅行に行ったりして写真を撮ったりして、色んな写真展に出展したりしていたけど、今となっては作品としてとってあるのは彼の作風を真似た9枚1組の写真だけだ。
たとえば「表現」ってなってくと、写真っていうの は自分の手足みたいな感じで捉えられるわけですよね。たとえば自分の観念なり思想なりを、ある種カメラを手段として撮ってくみたいな考え方になってくる。 だけど、写真っていうのは撮ってる作者の意識を裏切ってくような要素って強いわけですよ。
金村さんは、仕事の合間にプラウベルマキナで今でも「慌てるように撮る」と言った。ビューイングの様子はというと、金村さんの大きくプリントされたモノクロの作品群は、長テーブルの上にところ狭しと並べられている。
中平さんの場合ストレートにほぼ焼くだけで平面性が出たので、それならば自分も焼き込まずにやってみようと思いました。



Twitterで空の写真をUPところ、意外と評判が良かったので継続。 徐々に写真に興味を示すようになって、スナップ写真にハマり、Sonyのa6000を購入。以後九州テレビの特派員をしつつ、現在に至る。

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