野良猫の玉座

2019年6月3日


 

ふと、思いついたようにLightroomを起動する。

カタログに入っている写真は数万枚に及ぶのでぼーっと全体を眺めるように今の私が気に入りそうな写真を探す。

見つけたら、現像作業に入る。

ある写真家曰く、PCでの現像は再撮影をすることに近いらしい。ごもっともだと思う。

この写真を撮影した時の私と現像している私は別の時間の私だ。

 

撮影しているときは観念的なことは考えずに、光と構図、そしてシャッターチャンスを逃さないように全体をぼーっと見ている。

何かピンときたらシャッターを押す。

何か特別だと感じたときは、できるだけ違う角度から複数枚、状況が許せば階調を豊かな写真にするために同じ場所から違う露出の写真を複数枚撮影しておく。

 

この写真は、とある雑草まみれの小さな空き地に佇む野良猫を撮影したもの。オリジナルは広角で撮影しているのでより広い空間的な写真だ。

しかし、現像している私は撮影している時の私ではないので、様々なことが脳裏を駆け巡る。

この写真を現像しているときは、直前にドラマのゲームオブスローンズにスタバのカップが写り込んでいたというネット記事を見て、鉄の玉座にスタバのカップを合成したコラ画像を見てしまって強烈なイメージが脳内に残っていたので、草まみれの小さな空き地にいる野良猫が何故か「野良猫の玉座」に座っているイメージを思いついたので、できるだけイメージに沿うように現像。

 

現像し終わってふと考える。「野良猫の玉座」って何なんだろう?

別に玉座といっても野良猫がゲームスローンズよろしく玉座を巡って争うわけではない。私は「野良猫の玉座」を思いついた時に何を考えていたんだと。

私にとって、野良猫は今の私たち日本人が忘れてしまった何かを持ち合わせているように思う。具体的にいえば、森山大道の代表作「にっぽん劇場写真帖」にあるような、混沌として汚いが自由のある世界。その世界の住民に思える。

だから、「野良猫の玉座」はその混沌として汚いが自由がある世界の象徴、私の脳内イメージとただ目の前の世界を記録した写真の鬩ぎ合いの結果誕生したものではないかと。

だからといって、センチメンタルに思ってそういう風に撮影したつもりは微塵もない。撮影して現像し終わって批評家的視点で見るとそう思えるだけだ。

 

もう一度現像し終わった写真を見る。猫を取り巻く雑草は剣や街のビルのように鋭く、白く輝いているのに生命や瑞々しさというより、タナトスの臭いを放っている。

突然現れた私を警戒するように身構えている野良猫。月に数度は顔を合わせているので普段はここまで警戒されないのだが、この写真を撮影したときはゴールデンウィークで普段より人の行き交いがあったので、周囲を警戒していたのだろう。事実、この写真を撮影するまで10分近く向き合っていたが別に逃げも隠れもしない。

 

現像した写真を見終えてこう思った。やはり写真は感情を記録するには不完全だなと。

しかし、あらゆるものの総体、即ち世界を記録すること、特に光と時間を記録するには現時点では最高のメディアであることには間違いない。

私にとって写真は、世間一般でいうアートではない。写真は表現という感情を伴う行為とは対極にある、世界を記録するというもっとも幻視的な人間の願望を叶えるメディアなのだから。

最新の更新を
購読しませんか?