中平卓馬「来たるべき言葉のために」レビューその1

今回紹介する本は、写真家 中平卓馬さんの処女写真集「来たるべき言葉のために」です。

「来たるべき言葉」ってなに?

まず、このインパクトのあるタイトル、来るべき言葉とはいったい何なのでしょうか。
私が手元に持っている本は、後年に再出版されたもので、解説文などが含まれていないので、当時の中平卓馬さんではなく後の記憶喪失後の彼の考えですが、1989年の写真集「ADIEU A X」のあとがき「撮影行為の自己変革に関して」に書かれている文章の

終局的に言えば、次第、次第に、写真と言う言葉が持ち得る力そのものを喪失しつつある、点に気づきました。

ということから言葉=写真であることが想像できます。
では、来たるべき写真とはいったいどのようなものなのでしょうか?



来たるべき写真の根底に…

続けて、「ADIEU A X」のあとがき「撮影行為の自己変革に関して」からの引用になりますが。中平卓馬さんは

1960年代末期、私が、まだ、新左翼系、月刊雑誌、「現代の眼」編集者で在った時、初めて撮影行為に関心を抱き始めたのは、アメリカの卓越した、写真家ウイリアム・クラインの作品集を突如、眺めた時からです。ウイリアム・クラインが、造り上げていた作品総体、具体的に言えば、彼自身、全く偶然、知ってもいなかった世界の諸姿と、突如、出会った時、かなり感動し、それらの姿そのものを、彼自身の感性を決して傷つけること無く、撮影し抜いてきた結末が、彼の作品集でした。その一点において、彼は、他ならぬ、カメラだけが持ちうる力、その特性を十全に発揮した存在でした。彼の作品ほとんど全てを、私、眺め、撮影を開始しました。

と、写真家ウイリアム・クラインの作品集の影響を受けて写真家を志したようです。
そして、中平拓馬さんは、既存の写真家たちに鋭い言葉を突きつけます。

その当時、さまざまな雑誌に発表されていた作品の多くは、女性像up、ヌード写真を初めとして、ほとんど全ての作品が、対象たる存在を写真家の自意識を基点として位置づけ、撮影した、そのような虚構的作品が多かったのでした。

写真には、記録としての1面と、コミュニケーションツールとしての二面性が確かに存在します。
ですが中平卓馬さんは、行き過ぎたコミュニケーションツールとしての1面を否定し

それ故、私、多くの写真家達に全的に対抗し、先に記述したウイリアム・クライン風の「ブレ・ボケ」作品を撮り始めました。

そして、写真集「来たるべき言葉のために」は出来上がりました。
写真集「来たるべき言葉のために」は、日本写真界のマイルストーンとも、その後に記憶を失った中平卓馬の最高傑作と称さるほどの名作です。

もっともご本人は

その帰結が、「ブレ・ボケ」を強化し過ぎ、対象を全く不明にしてしまいました。それ故、逆に、私の作品総体が写真の本質性を徹底的に喪失したありさまでした。

とのことです。

しかし、「来たる言葉のために」は名作と誉れが高く、初版の中古本は状態によりますが10万円を超える値段がついています。

中平拓馬さんのある種の神話的な生きざまの根底にある「写真=言葉」をウィリアムクラインの如く瑞々しい感性で撮影し抜いたこの写真集についてこれからレビューしていきたいと思います。